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1185年、日本の歴史を大きく動かした「壇之浦の戦い」。その最終決戦の舞台となったのが、彦島のすぐそばに広がる関門海峡です。合戦当時、彦島には平家の本陣が置かれていたと伝えられています。源平合戦のクライマックスと彦島の関わり、そして今も残る史跡をご紹介します。

  1. 壇之浦の戦いとは

    壇之浦の戦いは、平安時代末期の元暦2年3月24日(1185年4月25日)、長門国赤間関壇ノ浦(現在の山口県下関市)で行われた合戦です。源氏と平家が争った「治承・寿永の乱(源平合戦)」に…

  2. 彦島に置かれた平家の本陣

    壇之浦の戦いに至るまでの経緯をたどると、彦島の名前が登場します。

  3. 屋島の敗戦から、彦島への撤退まで

    壇之浦の戦いに至るまで、平家の勢いは急速に衰えていました。一ノ谷の戦いの時点で10万騎ともいわれた平家軍は、続く屋島の戦い(現在の香川県)での敗北を経て、壇之浦の戦いの頃には7千騎ほど…

壇之浦の戦いと彦島|源平合戦最終決戦の舞台、平家本陣の島を歩く

関門橋の真下、みもすそ川公園に立つ源義経・平知盛の像と関門海峡・門司港の眺め
壇之浦の戦いの舞台・関門海峡を望むみもすそ川公園(源義経・平知盛像)

写真: そらみみ(CC BY-SA 4.0 / Wikimedia Commons)

彦島に暮らしていても、あるいは彦島を訪れても、意外と知られていないことがあります。それは、彦島のすぐそばに広がる関門海峡が、日本の歴史における最も有名な合戦のひとつ「壇之浦の戦い」の最終決戦の舞台だったということです。

しかも、合戦当時、彦島には平家方の本陣が築かれていたと伝えられています。今回は、源平合戦のクライマックスとされる壇之浦の戦いと、彦島との関わりについてご紹介します。

学校の歴史の授業で「源平合戦」「壇ノ浦の戦い」という言葉を耳にしたことがある方は多いはずです。しかし、その最終決戦の舞台が彦島のすぐそばであり、平家が最後の拠点として彦島を選んでいたことまでご存知の方は、意外と少ないかもしれません。

壇之浦の戦いとは

壇之浦の戦いは、平安時代末期の元暦2年3月24日(1185年4月25日)、長門国赤間関壇ノ浦(現在の山口県下関市)で行われた合戦です。源氏と平家が争った「治承・寿永の乱(源平合戦)」における、最後の戦いとされています。

関門海峡は、本州と九州の間を蛇行する海の、最も狭くなった部分にあたります。下関側(本州側)の海域が「壇ノ浦」と呼ばれ、この一帯で源義経が率いる源氏勢と、平宗盛・平知盛が率いる平家勢が激突しました。

『平家物語』などの軍記物語をもとに、その経過が今日まで伝えられています。合戦の結果、平家一門は滅亡し、武士による新たな時代(鎌倉幕府)へと歴史が大きく動くことになりました。

彦島に置かれた平家の本陣

壇之浦の戦いに至るまでの経緯をたどると、彦島の名前が登場します。

一ノ谷の戦い(現在の神戸市)で源氏に大敗を喫した平家は、海に逃れ、讃岐国屋島(現在の香川県)と、長門国彦島(現在の山口県下関市)に拠点を築きました。合戦当時、彦島には平家方の本陣が置かれていたとされています。

関門海峡という本州と九州を結ぶ交通の要衝に位置する彦島は、平家にとって、最後の反攻を期すための重要な拠点だったと考えられます。彦島が、源平合戦という日本史の一大転換点の、まさに最前線に位置していたことがうかがえます。

屋島の敗戦から、彦島への撤退まで

壇之浦の戦いに至るまで、平家の勢いは急速に衰えていました。一ノ谷の戦いの時点で10万騎ともいわれた平家軍は、続く屋島の戦い(現在の香川県)での敗北を経て、壇之浦の戦いの頃には7千騎ほどにまで減っていたと伝えられています。多くの水軍が源氏方へ寝返る中、平家は彦島を最後の拠点として、なんとか態勢を立て直そうとしていました。

『平家物語』によれば、当初300艘を率いて平家を支えていた阿波民部重能(あわのみんぶしげよし)が、合戦の直前に源氏方へ寝返り、平知盛の作戦を源義経に漏らしたとも伝えられています。この寝返りが、戦いの帰趨を大きく左右する転機になったともいわれ、彦島に本陣を置いた平家が、いかに厳しい状況の中で最後の戦いに臨んでいたかがうかがえます。

潮の流れが戦況を分けたという伝承

壇之浦の戦いには、もう一つよく知られた逸話があります。関門海峡は、1日に4度も潮の流れが大きく変わる、航行の難所として知られる海域です。

合戦の当日、当初は水軍に長けた平家方が優勢だったものの、やがて潮の流れが変わり、源氏方に有利に働いたことで、戦況が逆転したと伝えられています。源義経がこの潮流の変化をうまく利用したとする説が、今日までよく知られる合戦の物語として語り継がれています(実際の潮流の影響については、諸説あることも指摘されています)。

彦島のすぐそばを流れるこの海が、日本の武士の世の行く末を左右したかもしれないと思うと、普段目にする関門海峡の景色にも、また違った趣が感じられます。

幼き安徳天皇と、三種の神器の行方

壇之浦の戦いの結末は、日本史の中でも特に悲劇的な場面として語り継がれています。

劣勢に立たされた平家は、わずか8歳の安徳天皇とともに、関門海峡の海へと沈んでいきました。安徳天皇の祖母にあたる二位の尼(平時子)は、平知盛の言葉を聞いて死を決意し、皇位の証である三種の神器のうち神剣(草薙剣)と神璽を抱え、幼い安徳天皇を抱き寄せて、ともに海へ身を投げたと伝えられています。

この時、三種の神器のひとつである神剣は、そのまま海に沈み、失われたとされています。平清盛の孫にあたる安徳天皇の最期と、神器をめぐるこの逸話は、栄華を誇った平家一門の滅亡を象徴する出来事として、今も語り継がれています。

『平家物語』には、入水する直前、幼い安徳天皇が「どこへ連れて行かれるのか」と尋ねた際、二位の尼が「波の下にも都のさぶらふぞ(波の下にも都がございますよ)」と答えたという場面が描かれています。この一節は、日本文学の中でも特に印象的な場面の一つとして、今日まで広く知られています。

今も残る、合戦ゆかりの史跡「赤間神宮」

壇之浦の戦いから840年以上が経った今も、関門海峡周辺には、この合戦にゆかりのある史跡が数多く残されています。中でも代表的な場所が、下関市街地にある「赤間神宮」です。

赤間神宮は、壇之浦の戦いで入水した安徳天皇を祀る神社です。境内には、小泉八雲(ラフカディオ・ハーン)の怪談で知られる「耳なし芳一」ゆかりの芳一堂や、平家一門の墓とされる「七盛塚」もあり、壇之浦の悲劇を今に伝えています。

赤間神宮では、毎年5月2日から4日にかけて、幼くして亡くなった安徳天皇を偲ぶ「先帝祭」という特殊神事が行われます。特に5月3日に行われる「上臈参拝」は、豪華な衣装をまとった参拝が通りを練り歩く様子から、数十万人ともいわれる人出でにぎわう、下関を代表する祭礼の一つとされています。840年前の悲劇が、今も地域の大切な祭礼として受け継がれていることに、歴史の重みを感じずにはいられません。

壇之浦古戦場の記憶を伝える「みもすそ川公園」

壇之浦の戦いの舞台となった関門海峡沿いには、当時の記憶を今に伝える公園も整備されています。関門橋のたもと、下関市街地側に位置する「みもすそ川公園」です。園内には、壇之浦の戦いで対峙した源義経と平知盛、両雄の像が向かい合う形で設置されており、合戦当時の緊迫した空気を今に伝えています。すぐそばには「壇ノ浦古戦場」の碑も立ち、関門海峡の潮流や行き交う船を間近に眺めながら、840年以上前にこの海で繰り広げられた合戦に思いを馳せることができます。

頭上には日本を代表する吊り橋のひとつ、関門橋が架かり、潮流の速い海峡を望みながら、源平合戦の歴史と現代の交通インフラが同じ景色の中に共存する、下関ならではの風景を眺めることができます。彦島からは関彦橋・彦島大橋を経由して車でおよそ15分ほどの距離にあり、赤間神宮とあわせて立ち寄りやすい立地です。

壇之浦の戦いが日本の文化に残したもの

壇之浦の戦いは、単なる合戦の記録にとどまらず、その後の日本文化にも大きな影響を与えました。合戦の顛末を描いた『平家物語』は、「祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり」という冒頭の一節でも知られる、日本を代表する軍記物語です。平家一門の栄枯盛衰を描いたこの物語は、能や歌舞伎など、後世のさまざまな芸能作品にも影響を与え続けています。

例えば、壇之浦で入水したはずの平知盛の亡霊が、義経一行の前に現れるという筋書きの能「船弁慶」は、壇之浦の戦いをモチーフにした代表的な演目の一つです。840年以上前にこの海で起きた出来事が、形を変えながら今も語り継がれていることは、壇之浦の戦いが持つ物語としての力の大きさを物語っています。

なぜ彦島が最後の拠点に選ばれたのか

平家が彦島を拠点とした背景には、彦島の地理的な条件が関わっていたと考えられます。彦島は、本州と九州を隔てる関門海峡の、最も狭くなった部分に面する島です。海峡を押さえることは、水上での機動力に長けた平家水軍にとって、地の利を活かせる重要な戦略拠点だったと考えられます。

また、彦島は瀬戸内海と日本海(響灘)の両方に面しており、西国に広く勢力を持っていた平家にとって、両方の海域とのつながりを保てる立地でもありました。屋島を追われた平家が、最後にこの彦島を選んだことには、こうした地理的な意味があったと考えられています。

現在の彦島には、当時の陣跡を直接示す史跡は残されていませんが、関門海峡という交通の要衝に位置し、周囲を海に囲まれた彦島の地形は、840年以上前とそれほど変わっていません。今、彦島から見渡す関門海峡の景色は、平家一門が最後に見た景色と、そう遠くないものかもしれません。

彦島のすぐ沖、もう一つの決闘の島へ

彦島のすぐ沖に浮かぶ巌流島は、江戸時代に宮本武蔵と佐々木小次郎が決闘した島として知られていますが、この巌流島も、彦島と同じ関門海峡に浮かぶ島です。壇之浦の戦いから約400年後、同じ海域が再び日本史に残る決闘の舞台になったことを思うと、関門海峡という場所の持つ歴史の重みを、あらためて感じさせられます。

巌流島の宮本武蔵と佐々木小次郎の決闘については、関連記事「巌流島は彦島のすぐ沖|宮本武蔵と佐々木小次郎、決闘の島」もあわせてご覧ください。

彦島から、日本史の舞台を望む

普段何気なく目にしている関門海峡の景色。その海の底には、840年以上前、源氏と平家が国の行く末をかけて戦った歴史が眠っています。そして、その最終決戦の直前まで、彦島には平家方の本陣が置かれていました。

彦島に暮らす方にとっても、初めて彦島を訪れる方にとっても、この壮大な歴史はあまり知られていないかもしれません。しかし、彦島から関門海峡を眺めるとき、そこには単なる美しい景色以上の、日本史を動かした重みが確かに存在しています。赤間神宮や巌流島など、周辺に残る史跡とあわせて訪ねることで、彦島という土地が歩んできた歴史の奥深さを、より実感していただけるはずです。

彦島活性化推進協議会では、こうした彦島と歴史との深い関わりを、これからもご紹介していきます。関門海峡を眺めるとき、ぜひこの壮大な歴史にも思いを馳せてみてください。

よくある質問

元暦2年3月24日(1185年4月25日)、長門国赤間関壇ノ浦(現在の山口県下関市)の関門海峡で起きました。源平合戦(治承・寿永の乱)における最後の戦いとされています。

一ノ谷の戦いで敗れた平家は、讃岐国屋島と長門国彦島に拠点を築きました。合戦当時、彦島には平家方の本陣が置かれていたと伝えられており、壇之浦の戦いの最前線に位置していました。

劣勢となった平家とともに、わずか8歳で関門海峡の海に入水したと伝えられています。祖母にあたる二位の尼が、三種の神器のうち神剣と神璽を抱え、幼い安徳天皇を抱き寄せてともに入水したとされています。

関門海峡は1日に4度潮流が変わる難所で、当初優勢だった平家方が、潮流の変化により源氏方に押されたとする説が広く伝えられています。潮流の実際の影響については諸説あります。

下関市街地の「赤間神宮」は安徳天皇を祀る神社で、「耳なし芳一」ゆかりの芳一堂や平家一門の墓「七盛塚」があります。毎年5月には安徳天皇を偲ぶ「先帝祭」も行われています。彦島のすぐ沖に浮かぶ巌流島も、同じ関門海峡にある史跡ゆかりの島です。

主な引用元・参考資料

本記事は複数のWeb公開情報をもとに歴史の概要をまとめたものです。年代や経緯には複数の説がある場合があり、詳細については各出典や下関市の公式情報をご確認ください。

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